ふじゆう
自由すぎると、結局。
なぜだろう。自由なのに、似たモノばかり。
独創性を求めるのなら、実は不自由にした方が効果的。
独創性というのは、自由の中で生まれるように思う。
確かに本人にその素養があれば、独創的なモノは生まれてくる。
でもそうでない場合、自由にしてしまうと、自由すぎてどうすればいいのか分からなくなる。
分からなくなってしまうと、ダレかのマネをして形にする。
どうしたらいいのか分からないので、答えを他のヒトに求める。
結果自由な場所では、ダレかの後をついて行く、アリの行列になってしまう。
もしも独創性を求めるなら、不自由という障壁をつくり、強制的に道を歪める方法をとる。
歪められた道に沿うしかない。それが良い効果を生む。
結局ヒトは、それほど可能性を試していない。それよりも、完成度を上げるコトを優先する。
その結果、あらゆる分野でアリの行列になる。
現代は自由だが、高度な社会ではなおさら、アリの行列かは進む。
可能性を探して、それが見つかったとしても、高度なモノに追いつくまでさらに時間を要する。
あまりにもリスクが高い。独創性は、生まれにくい社会かもしれない。
やり方があるとすれば、不自由にするコト。アリの行列の道を塞いでしまう。
塞がれた道を、通るコトは出来ない。その時アリはどうするだろう。
その時アリたちは、別な道を探す。それはヒトも同じ。
道が塞がれれば、致し方なく別の道を探しだす。それが独創性に繋がる。
最短距離の大通りを、あえて塞いでみる。道は一つとは限らない。
不自由な障壁が出来れば、次の道を開拓する。
まっすぐな道が歪められたら、その道を進む。それは従来とは違う、やり方。
途端に独創的になる。
不自由にするやり方も、無限に存在する。どういう障壁をつくり、道を塞ぐかで、やり方も千変万化する。
不自由は、進路変更。案外、自由の中で、アリの行列になっている。あえて窮屈に、それが独創性の母。