ひょうか
全然やさしく、なれていない。
全然変われていない。
自己評価すると、全くやさしく変われていない。
やさしさの真似ゴトは出来る。でも、本質的にはとても意地悪。
表面的には、やさしくなれても、本当のやさしさとは違う気がする。
とても大きく変われると思った。でも大して変われていない。
根本的にナニかが足りない。それで本当にやさしくは、なれない。
本当のやさしさを身につけなければ、意味がない。意地悪だったり、粗暴だったりでは、以前のまま。
やさしさというモノの本質を探り出さなければ、スタート地点のまま、留まるだけ。
表面的にやさしくは出来る。でももっと自分の本質的な所からの、やさしさが欲しい。
どうも意地悪な考えが出てくるのは、物質的な見方でとらえる為。
物質のその奥にある、本質を見て判断していない。それでやさしくなれていない。
まだ表面的にしか、物事をとらえられていない。表面で見るなど、短絡的すぎる。
どうやったら、もっと本質的に見えるのか。気がつくと、表面的に簡単に処理してしまう。
めまぐるしくモノもヒトも動く。それに合わせて自分も動いている。
それに毒されて、物質的にしか物事を処理出来なくなっている。
一呼吸入れて、目を閉じ感じてみる。イメージしてみる。
本質的なやさしさは、おそらく目に見えるモノではない。感じるモノ、そしてイメージするモノ。
周りが急いでいるからといって、急いではイケない。立ち止まって、目を閉じる。
そこで本当のやさしさを、捉えるコトが可能になる。
捉えるべきは、共通項。命のつながりの中に、相手と自分を入れる、その共通性。
それを捉えられた時、始めて本当にやさしくなれる。
まず自分を大いなる命のつながりの中に、組み込む。そして他のヒトも同様に組み込む。
そこに本質的なやさしさは、存在する。
評価は、検証。足りなかったのは、目で見えない生命の中に、組み込まれたイメージ。いざ、その中へ。