かいにゅう
公共の範囲。
把握すべき範囲。
公共はどこまで介入して、生活者の情報を得ればいいのだろう。
自分がそこに住み、生活している。
様々なヒトが生活し、街が出来る。その状況を、公共の機関はどれだけ掴んでいるのだろう。
国勢調査というモノがある。なぜこんなモノがあるのだろうと、疑問に思う。
そんなモノが無くても、人口やそれ以外の情報も、把握しているハズではないかと思えてくる。
こういう違和感がある所には、必ず不備がある。コレを考えてみたい。
国勢調査というモノは、案外重要な情報として、位置しているらしい。コレは驚き。
つまりは、あまり把握が出来ていないというコト。それに頼らなければイケないというコト。
コレはおかしい。なぜそんなコトになってしまうのだろう。
簡単にいえば、生活者のコトを考えて行政は存在していないというコト。
従来通りの仕事をこなすだけの存在であるコト。つまり、不備があればいつまでたっても、不備のまま残ってしまう。
個人情報を守らなければいけないという、考えがある。コレは当然必要で、最大の配慮を図るべき要素。
その上で、どこまで介入していくか。
本来ならば、住民にプラスになるコトのアプローチを増やして、情報は得たい。
もともとその為の情報。プラスになるアプローチは、正式なやり方。
さらには、住居や生活から、情報を把握する。
不動産の入居、退居から、居住状況は分かる。そして公共料金から、生活の有無も分かる。
これを押さえ、さらに住民票と比較して、取りこぼしがないように把握する。
さらにはもう一つの人口の増減。産科、そして葬儀屋やお寺などから情報を得て、出生、死亡届と見比べていく。
さらには、80歳以上の高齢者には、一年に一度は直接会って生存も確認する。
これをすべての地域でやれば、国勢調査など必要ない。しかもより正確に物事が把握出来る。
どうも書類で済まそうとする。書類というのは良いようで、無責任。
ただ、書類を処理しているだけ。それだけで役目を果たしたことにしてしまっている。
書類は生活を映してはくれない。いくつものフィルターがかかって、正確とは言えない。
正確でなくても、それで良しとしてしまう。
さらには書類に記入する中身。必要で的確な中身ならイイが、楽をして情報を収集したいのが透けて見える、お粗末なモノ。
公共は、より考えなければイケない。素人や、猿まねレベルで成り立ってはイケない。
何よりの不備は、公共のニンゲンの意識の低さ。
その為に害を被るのは、生活者。
公共のニンゲンは、戦わないとイケない。もしかすると、一番向いて無いヒトで構成されているかもしれない。
介入は、考慮。丁寧に、生活者を思いながら、公共の機関は働くべき。いや、戦うべき。