えすかれーしょん

きょうりゅう

きょうりゅう

近代はより力強く、そして大きくを求めてきた。

ならば次代は、どうだろう。

恐竜のような近代は、もうそろそろ終わりにして、次代に移行したい。

近代は産業革命以来、より強く、より速く、より大きくという方向に進んできた。

それによって、遠くの地域が身近になり、大量の物資の行き交いが容易になった。

その生活を捨てるコトは、不可能と言ってイイ。もちろん、捨てる必要はない。

ただ、全体的に見直しても良い時期に、さしかかっている。

産業革命以降の技術だけではない。ヒトとしての考え方さえ、見直す時期に入っている。

それが近代に変わる次代。

ヒトの行動は、まず頭の中で行われる。それだけに、考え方というのは何よりも優先して、重要視したい。

心のありよう、考えのありよう、そこで行われるコトを知らなければ、次代には進めない。

ヒトの行動など、基本的に何千年も変わっていない。同じように行動し、奪い、殺しを続けている。

コレは誰しもが持つ、心や考え方の中に潜むモノ。

その潜むモノは、同じパターンで動くので、表にさらしてしまえばいい。

ヒトはその通り動く。それを知って、自分も同じ行動や、考えに陥っているとすれば、それはとても恥ずかしい。

自分の考えは特別だと思っているが、実はありきたりでパターン通り。それを認識するコトで、一歩退いて物事が見える。

知るというのは、一歩も二歩も退いて、冷静に判断するコト。退いた所で、策を講じるコトが出来るというコト。

コレにより、次の段階に進める。ありきたりなパターンの中に居ては、主観的なまま。感情に従属するのみ。

近代は、高い技術とありきたりなパターンにより構成されてきた。

それは我が物顔で歩く、巨大な恐竜。

次代は更なる高度さを求めるが、同時に自分を知り、自分を制御する能力も身につける。

その時には、もう恐竜ではなくなっている。

今までの素晴らしい技術には敬意を表して、同時にすべてを見直していく。

競争は他人とするモノ。それは一つの手段。それにより高い技術を産み出せる。

ただ、方向性も固定される。そこが競争の落とし穴。他に意識が行くばかりに、向かう方向を見失う。

高い技術を求めるなら、モノと向かい合えばいい。その時に他人は関係ない。

モノと向かい合い、あれやこれやと練ればいい。手段として競争を使うのは構わないが、見失わないように。

本来は無限に広がっている。競争は、そのごく一部でしかやりあわない。

根本から見直すならば、競争を捨て、モノとだけ向き合うコトも有効な手段。

ヒトが認識している世界など、かなり狭い。もう一度ゼロの中に身を置いて、一呼吸してから見直してみる。

そこに近代をはるかに越える次代が、待ちくたびれて佇んでいる。

恐竜はありきたり。ゼロに身を置き、自分を知り尽くし、次代を想い描く。そろそろ、近代の卒業準備を。

-えすかれーしょん