げいじゅつ
どこからなのか。
首をかしげたくなる。
どこからが芸術で、どこからが芸術ではないのだろう。
あるヒトにとっては芸術なのに、他のヒトにとっては芸術ではないコトはよくある。
この芸術という代物は、なんなのだろう。
たとえば工芸品や、工業製品であっても、見るヒトによっては芸術になってしまう。
造ったヒトが芸術という認識がなくても、見るヒトが芸術だと思えば、そうなってしまう。
逆に見るヒトがそう思わなくても、作ったヒトが芸術だと言えば、芸術になってしまう。
同じモノでも、芸術になったり、芸術ではなくなったりするというコト。
まず見るヒトが言う、芸術から考えてみる。
他に誰一人として認めなくても、そのヒトが芸術と言えば、芸術になる。
ヒトによってそれが違うというコト。そういうモノがあるだろうか。
あるとすれば、感じ方。同じモノでも、ヒトによって感じ方は変わる。
さらには、同じヒトでも状況によって、感じ方は変わる。とすると、芸術と関係するのは、感じ方だろうか。
たしかに、芸術と感じるのは、「ワァっ」と思う時。この「ワァっ」が芸術かもしれない。
「ワァっ」と感じさせた時が芸術で、見飽きて「ワァっ」が無くなると、芸術から外れてしまうのかもしれない。
その芸術作品は、惰性で芸術の中に納まっている、マヌケな存在かもしれない。
では作るヒトが、自分で芸術だと言い張るケースはどうだろう。
その場合、芸術を職業にしている場合が多い。さらには、周りからは認識されていないか、貧しいヒトが多い。
自称芸術家というのは、生活の為そうアピールしている。お金を得る為に、そう言わざるをえない。
確かに芸術というのは、多額のお金に換わったりもする。元手が少なくて、大金も手に出来る。
職業芸術家が言うのが、自称芸術。それでも芸術と名付けられれば、芸術でいられる。
芸術に決まりはない。もともとお金になるコトを、目的にもしない。
お金は付属物。芸術のおまけ。
本来は見るヒトに、「ワァっ」と思わせるモノ。そう感じさせるモノ。
それとヒトの欲望があいまって、芸術として確立する。
もともと揺れている、つかみ所のないモノ。その空気のようなモノに、名前を付けている。
芸術に間違いはいない。間違いと言えるほどのカタチはない。自由と言うよりも、好き勝手にやってイイ物。
ある意味イイ加減で、テキトーな存在。ダレも文句は言わない。文句を言えるほど、確定的なモノでは無い。
芸術は揺れている。確立する為には、芸術と宣言するだけ。芸術かどうかは、自分で決めてイイ。