まぎゃく
その中に何が潜む。
拒んできたモノ。否定し続けてきたモノの中に何があるのか。
真逆の選択肢。真逆の状態と思っているモノを、考えてみる。
自分の行動は自分で決めている。ヒトに言われたとしても、最終的に自分で選択したコトになる。
自分が選んだコトと、真逆だったらどうなっていたのだろう。
真逆の選択をしたのだから、さぞ世界は変わるように思う。
でも、実際は大して変わらない。
選ばなかった選択肢に過度に期待して、世界を変えてくれると思っても、それが全てを解決してはくれない。
自分が選んだコトが大間違いであっても、生き方が180度変わってしまうコトなど無い。
みんなそれなりに一生懸命生きている。
どんな選択肢でも、一要素でしかない。
真逆だと思っても、自分の身の置き方によって、そう見えるだけ。
自分の意志や状態を押し切って、無理をしてやってみても、あまり良い結果に繋がらない。
自分の選択の先にある部分に、本当の意味がある。
とすれば、間違った選択をしたとして、自分を責め続ける意味は無いように思う。
さらには、ヒトに対してもそれは間違っていると、責める必要もないように思う。
重要なのはその先に潜むモノで、それは何かを考えてみたい。
一体、その先に潜むモノとは何だろう。
もしかすると、直線かもしれない。
もう少し離れた所から見れば、真逆と思われるコトも、ほとんど差がない直線に見える。
つまり、真逆にはまだ先があり、本当の極に行けば、ヒトはそこでは生きていけない。
我々が、生活しているというだけで、居心地の良い場所と言えるのだと思う。
そのぬるま湯の中で、ああだこうだ、悩んで責めてをくり返している。
過去や未来も、極に行けば人は住めない。正しさや悪行も、極ならばヒトは居られない。
手の平の孫悟空。所詮手の平なのかもしれない。
その手の平の安心感の中で、恵まれたその中で、悩んでいるように思う。
どんな生き方でも、イイ。手の平の上。真逆の先にあるモノは、絶対的な許し。安心感。
真逆は、まだ手の平。極では人は住めない。人が生きられる世界は、狭く、そして恵まれている。