りかい
伝える側、教える側は不安。
受ける側、教わる側も不安。
本当の理解とは何だろうか。
相手が理解出来ているかというのは、実はとても不安。
確認をすれば分かるが、もしも理解していないとすると、厄介なコトと感じる。
伝える側、教える側は、2の矢3の矢 を持っていないと、途端に窮地に陥る。
ただ、厳密な理解という方が、実は珍しい。
理解していると思っているコトでも、十年後にまるで勘違いしていたのが発覚した、というコトはよくある。
理解していると思っても、結構いい加減に、大体で良しとしている。厳密な理解の方が珍しい。
言語などは、記号や形式の集合体。文字も、音声も、ある決まった形式の記号と言える。
その形式と記号を、量を入れながら、修正もしていく。
大体でとらえて、数をこなしていくうちに修正はしていく。
同じモノでも、違う角度で出し入れする毎に、形式や記号が身につき修正される。
数が少ないほど、不安定で危なっかしい理解となる。
そのままを、感覚で受け止めてしまった方が良い。あまり、厳密な理解は避けた方がいい。
嫌にさせたり、やらされては、量が稼げない。その時だけになってしまう。
嫌になっても、量がこなせればいいのだが、それは難しい。
極力、気づかれないように、形式や記号を埋め込んで、量をこなせたらそれが最高のやり方。
日常の中に、潜り込ませれば、なおイイ。日常なら、拒むコトは出来ない。拒む必要もない。
形式や記号を分解し、他のモノに紛れ込ませれば、嫌になる間もなく、量をこなせる。
理解を急がない方が良い。理解は身につけながら、納まる所に納めればいい。
全く違うやり方が、存在するように思う。意識するのではなく、無意識に刷り込む方式。
理解は、だいたい。厳密なモノではなく、量により確定されるモノ。意識的理解と、無意識的理解があってもイイ。