きょうしいらず
自分でやれる。
自分でやればいい。
得意教科であれば、教師という存在は要らない。自発自習で、身につく。
得意教科に限っては、教師を無くしてしまうというのは、どうだろう。
出来の良い参考書を作り、場合によっては映像にして、DVDにまとめる。
学びたい人間は、それを見て自身で身につけていけばいい。
あとは、出来ているかの事細かなチェックをして、技術が必要なモノは、そういう場を作ってそこで身につければいい。
教師が絶対条件だと思うのは、間違いかもしれない。状況によっては、学校すら要らないかもしれない。
家に帰ってから、自習で身につけて、出来ているかの確認だけでコト足りるように思う。
得意教科が身につけば、偏人になる。偏人といっても、人は皆偏人なので、それでいい。
としても、この段階ではただの偏人なので、役には立たない。
学校や教師が必要なのは、それがないと身につかない人が居るから。
もっといえば、学校や教師があっても、現状では苦手な教科は、身についていない。
身につかないというのは、出来ないというコトで、テストをすればペケがある状態。
ここで偏人の出番。偏人ほどの能力があれば、このペケの状態を分析は出来る。
何が出来ていないのか、どこが分からないのかを、間違え方から分析できる。
分析が出来たら、次の段階。もしも、出来ない状態を出来るようにしたなら、その教科のマスターと言っても良い。
ただこの出来ないというのは、個人差がありすぎるモノ。答えなど用意されていない。
それを、研究して方法論を見つけていく。それこそが、その教科を得意とする者として生まれた、偏人の務め。
これは場合によっては、教材づくり。その方法論を提出し、予算を貰って教材を作る。
もしも、出来ないを出来るようにしたならば、その方法論はデーターベース化され、公開もされる。
せっかく偏人に生まれたなら、役に立たないとモッタイナイ。
自分が得意なモノは、そのチカラで人を助ける。自分の苦手なモノは、ヒトから助けて貰う。
お互い様であり、教えるカタチの多様化が、ヒトの多様性をフォーローしてくれる。
たとえば小学生でも、得意な教科なら大学レベルの勉強でも、帰宅してから自習で身につけられる。学校も教師も要らないので、それも可能。
学ぶモノが無くなった時点で、その教科の偏人になれる。そこまでならただの偏人、役立たず。
そのあと、クラスメートで苦手な子の、テストのペケの部分を分析。原因の特定をする。
さらに次の段階として、どうすれば出来るようになるかを研究。方法論を見つけ出していく。
出来るようにしたならば、その教科のマスターになれる。つまり大いに役に立つ、偏人として認められる。
重要なのは、それぞれ得手不得手があっても、イイというコト。自分が出来る範囲で、やればイイというコト。
そして、ヒトに頼っても良いというルール。でも最終的に出来るようになるのは、自分だという現実。
この認識が必要になる。
必要なのは教師ではなく、出来るようにするヒト。そして、多様性を認め、活かすシステム。
教師いらずは、適材システム。得意な人が、苦手な人を補う。補い合いが基本。柔軟に、そのヒトらしく。