よういされている
誰かが作ってくれている。
状況、状況においての言葉を。
その場面場面で、言葉は用意されていて、当然のようにそれを使っている。
的確で、それ以上ないというならば、それでいい。
ただ、多少違和感があっても、そういうモノだと思って、用意されている言葉を使うケースも多い。
言葉は世界を、切り分けてくれる。
その言葉次第で、世界はちょっと違う見え方にもなる。
表現と言っても良いかもしれないが、脳を通る経路が違うように思う。
言葉が違えば、脳を通る経路が変わり、納まる所も変わる。
すると、用意された言葉の概念と、少し違う概念になる。
作家でもないかぎり、言葉で冒険はしない。
言葉探しというのも、ほぼしないと言って良い。
どちらかといえば、より使い古された言葉の型に当てはめて、安心する方が多いように思う。
言葉を探すのは労働で、わざわざそんなコトをするのは、作家くらい。
一般の人は、場面場面で用意されている言葉で、その場を味わうだけ。
それが多少違和感があっても、言葉はうわべなモノなので、処理できてしまう。
その場で感じた感情と、言葉が多少ギクシャクしていても、そういうモノだとして、拘らない。
とすると、逆に的確な言葉を探そうとする人間の方が、固執しすぎているのかもしれない。
そこまで求めていないモノを、目くじら立てて、否定する方がおかしいのかもしれない。
言葉で概念を変え、世界を切り分けるコトも出来るが、うわべのモノとして、適当に処理出来るのも事実。
所詮言葉は、モノに付けられた名前。どちらでもイイのかもしれない。
用意されているのは、言葉。ありきたりな言葉の裏で、そのヒトそのヒトの感じ方がある。どちらも正しい。