あまやかす
同じかもしれない。
甘える。それと。
甘えると甘やかすは、同じかもしれない。
立場は違うが、甘やかしている方も、甘えているのかもしれない。
甘やかすは、相手の求めに対して、そのまま与えてしまう行為。
求めを許し、そのまま言いなりになってしまう。
それは自分が良く思われたいから。
自分の存在を有益だと、思われたいから。
なぜそんなコトを、してしまうのだろうか。
世の中で、自分が有益だと思ってくれるコトは、案外少ないから、それに飢えているのかもしれない。
その飢えを、求めに応じるコトくらいで解消できるなら・・・、その考えで甘やかしてしまう。
甘やかしている方も、その行動で満たされている。
甘えるとは何だろう。
ヒトはヒトに甘える。甘えられている方も、満たされている。
甘えているあいだは子供になれる。大人といっても、大人を演じているだけ。
大人であるというのは、それだけ無理をしているように思う。
甘えている時は、その無理から解放される。甘えられている方も必要とされ、自分の存在が肯定され満たされる。
大人は重たい荷物を持たされている。これを持ったり、持って貰ったりが、甘えると言うコトかもしれない。
子供の甘えるとはどうだろう。子供は欲望の塊。いろんなモノを欲しがるのが、子供の仕事。
もしも子供が欲しがらなくなったら、それはそれでつまらない。
子供が欲しがってくれるコトで、大人も半分子供に戻れている。
体験を共有するコトで、大人でもちょっと子供になっている。
その間は、大人としての荷物を背負わなくても良い。とても弛んだ時間になる。
それは健康的な時間と言える。
子供の求めには、応えられなくても良い。応えるように努力してくれれば、子供はそこに愛情を感じる。
子供も、大人という自分より優れた存在と、沢山意志を交わしたい。
物欲も旺盛だが、大人が自分の為に動いてくれたという事実は、子供にとってとても嬉しい行為。
ひと言で甘えるといっても、心情や想いを含んで、意外に複雑と言える。
ただ、甘え続けるコト、さらにカタチやモノでの甘えばかりでは、おかしくなってしまう。
与えられ続ければ、価値が下がり、横柄にさせる。横柄になった人間は、問題行動を起こす。
それは甘えさせている方も、求めていないハズ。
甘えるという子供になれることも求めるが、実は任せられるという、大人になれるコトも求めている。
大人にさせたり、子供に戻ったり、その両方でヒトは充実して生きられる。
無理強いではなく、お願いのカタチで、甘えたい。叶わなくても、努力はしたい。
重要なのは、カタチやモノではなく、その想い。
甘やかすのは、自分の為。荷物を持って貰ったり、相手の荷物を持ったり、それの繰り返し。子供と大人を行ったり来たり。