かんしゃ
相手と自分。
その立ち位置を考えてみる。
感謝するその時は、立場や立ち位置はどうなっているだろうか。
生活をしている中で、立場や立ち位置をシッカリととらえて、振る舞っていかなければ、周囲を不快な気持ちにさせてしまう。
そうであるハズが、感謝する時に限っては、そこから解放されるような気がする。
感謝というのが、立場や立ち位置などという、小さな概念を越えているように思う。
立場や立ち位置を考えていたら、本当に感謝など出来ない。
もっと深いトコロで、もっとホンモノでなければ、感謝など出来ない。
感謝に関していえば、偽るコトは出来ない。それはとても珍しい。
ほとんどのモノが、カタチだけ繕って偽るコトが出来るのに、なぜか感謝だけは偽れない。
感謝とは、一体何なのだろうか。
おそらくは人に見せるコトが、目的ではない。他人は関係ない、自分で思うモノと言える。
他人に見せるモノでないなら、偽る必要はない。周囲を不快にさせるモノでも、心地よくさせるモノでもない。
あくまで自分の問題。自身の姿勢の問題。
物事を、当然でありきたりとするか、感謝して尊いとするか。同じコトであっても、自分がその価値を別物にする。
心持ちが感謝で、その姿勢を変えれば、行動も変わる。
不安定な心持ちの、姿勢のひとつが感謝。感謝という、物事に対する自分の姿勢。
ただそれは相手にも伝わる。物事に対して丁寧に、大切に接するその姿勢の波動は、相手にも響いてる。
礼は演技だが、感謝は自分そのモノの姿勢。その違いは、感謝のカタチを持たない自由度。
感謝のカタチは、決まっていない。自分の心持ちのど真ん中から出て、またそこに帰って行くだけのモノ。
やさしく輝きながら、自分も周りも照らしていく。感謝だけでも、相手にいろんな波動をお返ししている。
感謝し合うのは、お互いをやさしく照らし逢うコト。感謝されると、とても心地よく感じるのも当然かもしれない。
感謝は、輝き。偽りない自分のど真ん中から出て、やさしく照らす。波動は命の歓びの振動。