こきゅう
窒息感に包まれる。
死というのは、窒息感の中にあるのだと推測する。
逆に、生きるは呼吸感の中にある。
窒息と、呼吸。
母親のお腹から出て来た時から、呼吸は始まる。
自力での呼吸。それは一人で生きていく第一歩になり、生きている最初の実感になる。
お腹の中では、窒息と呼吸のはざまにいる。ヘソの緒から酸素を供給するコトで、呼吸している。
その面では、生と死の間の状態かもしれない。胎児は、生と死がとても近い所に存在しているのかもしれない。
生きているモノは、ずっと呼吸している。その呼吸感が、生きている実感。
生きる期間が長いほど、死ぬという窒息感から、距離が離れていく。
死や窒息感などと言うと、不吉に思われる人が居るかもしれない。
私も同様に思う反面、生の世界が広がっているように、死の世界も広がっているモノとも思っている。
生の世界も死の世界も、同様に広がっていて、胎児はその両方のはざまに身を置いている。
そのどちらとも、距離が近い所に存在している。
私たちは死を恐れるが、死というのはもっと身近に、広がっている世界だと思う。
もちろん私たちは、生きなければイケない。死ぬコトを勧めているワケではないので、誤解はしないで欲しい。
あくまでモノを突き詰めていく者としての、探求心がそうさせるいる。
先ほどから、窒息感と呼吸感という風に表現している。
ただ、実を言うと深い呼吸をしている時にも、窒息感の時と似た感覚が存在している。
深い呼吸というのは、とても安らいでいる状態であるが、その時にも死の窒息感を僅かに感じられる。
それは、ゆっくりと息を吸った後の、少しの窒息状態。さらには息を吐いた状態の後の、少しの窒息状態。
起きて活動している時よりも、ゆっくりと呼吸をしている時の方が、息を止めている時間が長いように感じる。
そして、その息を止めている時間に、安らぎというのは感じているように思う。
息を止めるというのは窒息感で、死の要素ではあるのだけれども、同時に安らぎの要素だとも思える。
逆に生きるというのは、活動なので安らぎとは正反対になる。
活動しすぎては疲弊する。その時には、安らぎというのも欲しくなるモノ。
とするならば、ゆっくりと深い呼吸をし、吐ききった後と、吸いきった後に、窒息状態を確保するのも有効かもしれない。
ヨガの呼吸法にも、何十秒かけてゆっくりと吸い10秒程度息を止め、何十秒かかけて、ゆっくりと吐き10秒程度息を止めるというモノがある。
やはり息を止める窒息状態は、安らぎに繋がっていると、私は考察する。
呼吸と窒息、生と死、活動と安らぎ。本来は同等に、広がっている世界ではないかと思う。
無理はしてはいけないが、その両方を活用したい。呼吸と、窒息の両方。
見えない世界のコトなので、分かりづらいが、両方を利用して良いように思う。活動と安らぎを。
呼吸は活動。死と生は身近で、ヒトは本来そのあいだにいる。拒絶するのも良いが、利用しても良い。