おとなのせきむ
呑ませるコトになってしまう。
それは社会の不備。
大人の責務から逃げてしまえば、社会の不備を呑ませるコトになってしまう。
いつの時代でも、社会に不備はある。その不備は本来、改善されていくべきハズのモノ。
そうであるハズだが、不備があると分かりつつ、なぜかソレに従っていく。
不思議なコトに、不備に従えるコトが大人であるというような、風潮まである。
従うようになったヒトは、社会の不備のまま生き、それはおかしいと指摘するヒトを、幼いと思ったりする。
本当は、大人の責務から逃げているだけ。
子供がどんなに正しいコトを主張しても、社会の不備を呑ませてねじ曲げてしまう。
不備のある社会に依存しているので、それを無理に呑ませるコトをしてしまう。
正しいや、正論に従うのなら、社会の不備を修正していかなければイケない。
慣れ親しんだシステムを、ゼロから作る必要がある。
その面倒な作業をするのが、大人の責務。残念だが、そこから逃げてしまっている。
やってみて、不十分だったり、出来ないのならば仕方がない。
それでも修正しようとする行為が、重要。
もしも現実に社会の不備を、修正出来る世の中に、なったとしよう。
それでも全てがすぐ、そうなるワケではない。全てがそうなるのには、時間がかかる。
その時に、正しいモノが必ず通ると考えるのも、危険と言える。
不備を許して、猶予をあげる意識も持ち合わせたい。
不備がないように修正するのが目的。戦う必要など無い。なので許して、しばらく待ってもあげたい。
大人の責務は、より良い修正をするコト。不備は呑んでも、呑ませてもイケない。逃げる従うでは、不備はそのまま。