しんじる
宗教やら、宇宙人の存在やらで、使われる。
不思議と、どこか違和感を感じてしまう。
信じるかという問いに、違和感を感じてしまう。
神を信じるや、宇宙人の存在を信じるか、などで使われる。
この信じるという言葉に、違和感を感じるのは、どうしてだろう。
神を信じますか?というのは、信じないという可能性も、前提に置いている。
最初は信じても、信じなくても、どちらでも良い。宣教師達の仕事は、そこから始まる。
その宗教の説明をしていき、信者を増やしていく。信じますか?というのは、最初のキッカケ。
宗教というのは、目に見えない世界が大きなウエイトを占める。神というのも、基本的には見えない存在。
目に見えない世界の話をする時に、それが存在していると思っていないと、話は進まない。
信じるというのは、その確認の作業かもしれない。
話をする上で、その世界があるモノとしないと、噛み合うことなく話が終わってしまう。
そう考えれば宇宙人も、存在していると思うかの確認の上でないと、話し合いは不可能。
話が出来るかの確認作業を、信じますか?という言葉でしている。そう考えてイイと思う。
それならば、信じますかに違和感を感じるのは、どうしてだろう。
訊かれる時はまだ良い。信じますと答える時に感じる違和感は、とても強い。
見えない世界があると思っていても、信じますという言い方は、少し違う気がする。
さて、どうしてだろう。
自分は目に見えないそのモノが、あると思っている。それは信じる信じないの問題ではない。
有るか無いかであって、信じる信じないではない。
細かい話になるが、信じるというのは、無いという中に入る。無いという要素があって、その上で信じると言うコトになる。
完全にあるモノならば、信じる必要はない。
信じるがつくかぎり、無いという要素を入れなくてはいけない。そこに違和感が存在していた。
信じるは、見えない世界に対しての自分の考え。本来は有るか無いかが正しい。神も宇宙人も、実は見えない世界の話。