えすかれーしょん

げんし

げんし

カタチが無いモノというのは、価値もないというコト。

カタチを形成すると、モノと呼ばれる。

あらゆるモノが原子のままであるなら、価値を持ちはしない。

原子が様々に結びつくコトで、いろんな個性を持つ。

その個性が組み合わさって、いろんな働きをしてくれる。

地球上の生命は、さらに複雑に組み合わさるコトで、高度で多様な振る舞いを見せてくれる。

その個性は、価値。そして原子のままであるならば無価値。

現在の価値世界と、原子のままの無価値世界。その両者を、想像してみよう。

それはまるで、宇宙の始まりから、発展していく様を見るかのよう。とても興味深い。

みんな発展したくて、価値ある存在になろうとして、そうやって形作られたように思う。

確かに価値ある存在を、求めたくはなる。ただおそらく、その方向には、弊害もつきもの。

無価値世界と、価値世界をイメージして、方向性を制御する。

そうすれば、発展から生まれてくる、弊害も最小に留められるように思う。

では、どうして価値ある存在を求めるのか。価値というモノ自体、一体何であるのだろう。

価値がある状態は、特別であるというコト。なるほど、みんな特別を目指して、そのカタチになる。

特別であろうとするがあまり、他を蹴落とそうとしてしまう。それが弊害に繋がっていく。

特別こそは、秀でる存在。他を蹴落とすのは、秀でたい者の行動。

ただその行為自体、秀でる者とは言えないし、特別とも言い難い。

ただ、特別でいたいが為に、よくしてしまう行動。埋没はしたくないのだと思う。

ありきたりが、埋没というコト。埋没しない方向にばかり、進んできている。

しかしながら、本質を見れば、みんなありきたりなどではない。埋没もしていない。

知るほどに、それぞれ多様なカタチで、いろんな働きをしている。

特別であろうとしなくても、みんな特別。価値ある方向に進まなくても、素晴らしい価値を持っている。

一度足を止めて見つめ直してみれば、価値のある存在に成れている。

元は無価値な原子だが、みんな価値ある存在に成っている。

山の頂上に辿り着いているというのに、気づいていないようなモノ。まだ登ろうとする。

原子の頃と比べれば、もう頂上にいるのと同じ。もうすでに価値ある特別になっている。

原子は、スタート。もうゴールに着いていると、気づけばいい。もうとっくに、価値もあり特別でもある。

-えすかれーしょん