ほんしつ
おぞましい。
それで、世の中で一番、そこから目を背けている。
自分のそこにある本質は、実におぞましい。
そんなコトは考えたくもないので、向き合わない。
自分が思っている、自分が居る。それは自分が、思い描いている自分。
その自分と、本質の自分とでは、どれほどかけ離れているのだろう。
本質は場に居合わせたときの、自分の行動に現れる。
様々な場で、本当の自分が浮き彫りにされていく。
頭では思っていても、いざその場になると、たじろいでしまう。
それが本質の自分の姿。
その時に動けなければ、意味など無い。認めたくなど無いが、本質の自分。
なぜたじろぐかといえば、自分を守ろうとしているから。
厄介ゴトから、逃げたいと思っているから。
自分の奥に隠れている、おぞましい本質の自分は、自分のコトしか考えてはない。
本質の自分とは、自己愛そのモノ。自己愛こそは、おぞましい。
自分は裏切れない。そこから、自分の愛した人、家族など、自己愛は拡大される。
自己愛の拡大も、愛の中に入る。血のつながりなど、自分を感じさせれば、裏切れなくなる。
愛は、裏切れないという感情と言い換えてもイイ。
それはとても美しく、自分を越えて他のヒトの為に生きている自分は、とても誇らしい。
美しいコトが出来てしまう自分が、本当の自分だと、思い込んでしまう。
でも、本質はおぞましい。それはいつまでたっても、なかなか変われはしない。
おぞましいから、美しいの境界。自己愛の拡大から、愛への境界。
思っている自分と、本質の自分の境界。その境界は、どこで分かれるというのだろう。
もしも本質の自分と、思っている自分の差が無くなると、どうなるだろう。
厄介ゴトを、本当にかぶれる自分になれたら、どうなるだろう。
想像しただけで、かなり大変だと分かる。とても煩わしいコトも、自然に動けないといけない。
単純にそれだけの、心がない。気持ちが保たない。
やはり原因は、このわがままで怠惰な自分にあったと気づく。
境目というよりも、自分の限界と言い換えた方がシックリくる。
自己愛の拡大でしか、自分を越えられない。
自分を越えたと思っていても、その中に自分が含まれていなければ、行動しない。
それが限界。限界はなぜ超えられない。
自分を含まないと、なぜ行動出来ない。
いや、まるで別のモノの為に、動く必要など無い。
というよりも、変えるべきは自分という概念。
自分という概念を、もっと分子レベル、原子レベルで認識すれば、あらゆるモノが自分になる。
自己愛の拡大で、構わない。変えるべきなのは、自己の認識。
自己をもっと、分子や原子のカタチに、イメージし直していく。
それが出来れば、おぞましい本質の自分は、美しく生まれ変わる。
本質は、切り換えられる。おぞましいから美しいへ。みんな所詮、原子のカタマリ。