しんじる
無責任とも感じる。
疑うと、どちらをすればいいのか。
信じるというのが、どうも丸投げで、無責任に感じてしまう。
信じるは、任せて見守るコト。言葉や手を出したくなっても、ジッと堪える。
ジッと堪えるコトは、自分が我慢すればいいので、無理な話ではない。
ただその結果、相手が好き勝手で、横暴な振る舞いをし続けたとしたら、どうだろう。
信じて我慢し続けた結果が、相手の為にもなっていないとしたら、どうすればいいのだろう。
逆に疑うというのは、なぜするのだろう。
ヒトは、言葉で相手を欺く。真実とは違うコトを、その口から描き出す。
疑うのは、その欺きを押し除けて、真実を知ろうとする行為。
悪いコトを、ヒトはしてしまう。でも、自分で悪いコトをしていると、表に出すヒトは居ない。
悪いコトをすれば、迷惑をかける。それは社会の害で、許されない。社会という沢山の敵を、作る結果になる。
表に出さないのはその為。それで欺くコトを、よくする。
実際に悪いコトをした人間を、疑うコトは、ふたたびその悪いコトをさせない、抑止力になるハズ。
警察官が犯罪者に対して、疑うのかそれとも、信じるのか。
警察官が信じると、犯罪者はくり返す。というよりも、悪いコトをして何も懲罰がなければ、ブレーキが掛からない。
ただ、無実のヒトを疑った場合、信頼にヒビが入る。
冤罪などになれば、真実からも離れ、信頼の土台が崩壊する。
それこそ全てを疑うヒトを、作り上げてしまう。では、どうするべきか。疑うか、信じるか。
もしかすると、立場や強さによって、違ってくるのかもしれない。
自分より弱い者の場合、どうだろう。疑えば、信頼にヒビが入る。するととても不安定に、なっていく。
信じた方がイイ。欺いた場合、その罪悪感とバレた時の恐怖で、再発はしない。
自分よりも強いヒトに信じられれば、そのヒトを裏切るワケにはいかない。まともになれる。
もしも、悪いコトをしていたなら、それに見合う懲罰は与える。相手が弱いので、それは出来るハズ。
では、自分よりも強い相手の場合、どうだろうか。
この場合、信じても疑っても、意味はない。悪いコトをしてたとしても、懲罰を与えるコトは出来ない。
相手は自分より強い。ならば、無実でも悪いコトをしていても、どうするコトも出来ない。
うっかり信じるなどと言えば、勝手を助長してしまう。余計なコトは、してはイケない。
対等な関係ならばどうだろう。対等ならばなおさら、疑えば関係が崩れるだけ。やはり余計。
どうやら、疑うという行為は、いらないらしい。信じて、信頼の方を、とった方がイイ。
悪いコトをしていた場合、疑っても本人が変わらなければ、何も変わらない。
本人が気づくしかない。生き方を改めるコトは、本人にしかできない。
信じて、信頼をとる。欺くのは、その信頼を裏切る行為。その罪悪感で、気づくのを待つ。