くりっく
退屈が襲う。
じっとして、居たくはない。
クリックでも何でも、パソコンの前では、何かの作業をしたくなる。
テレビとパソコンの前では、決定的に違う。パソコンは、何かの作業をせずには居られない。
寝転んだりモノを食べたり、そんなテレビの前とは、まるで違う。距離が違う、手の位置が違う。
手には他に持ってはいけないし、手が汚れていてもいけない。
パソコンは作業場。何かを忙しく、動かす宿命の中にある。
テレビの為に作られたモノを、パソコンに持ってくると、なぜか退屈。
じっとしている自分が、耐えられない。
テレビならば、1時間でも2時間でも平気だが、パソコンの前では10分でもキツい。
マウスを動かしたい、クリックをしたい、キーボードを叩きたい。
先を急ぎたい。それがパソコン流。作業場としての当然の欲求。
映画やテレビ用の作品では、それが出来ない。クリックが出来ない。
パソコン用に、別物が欲しい。
作業したい気持ちと、作品を見たい気持ちと、両方を満たしてくれるモノを望む。
その為には、最初から用意しておかなければイケナイ。クリックした時用に、新たな展開。
としても、それをした段階でチープにもなる。底が見えて、何もかもが安っぽく見えてしまう。
目と耳は作品に、注がれる。手はお留守になる。
手を動かして、作品でないモノが出てくると、今度はその余計な情報が煩わしい。
ネットの世界では、収入源を確保するのが難しい。
もしも広告が画面の中にあると、それも邪魔に感じる。
中断というのはどうだろう。テレビでは、ある程度の所でコマーシャルがあり、中断される。
それが、良い効果をもたらす。ネットの世界でも、ユーザーが中断を決め、そこで手を動かせる面白い仕掛けを作る。
そこに広告をいれる分には、ユーザーも嫌な思いにはならない。
飽きたら、それを中断して、また作品に戻ればいい。
クリックは新たな展開。パソコンの前では、頻繁にしたがる。中断なら、自然に移行できそう。
中断の行為を、パンドラの箱としてみる。