ものとひと
嫌がる。
その扱われ方を、嫌がる。
ヒトは、モノのように扱われるコトを嫌がる。
人と物には、どれほどの差があるのだろう。どの部分を、ヒトは嫌がるのだろう。
モノは、ヒトに使われる為の道具として生まれ、そして捨てられる。
いつ捨てられたとしても、文句は言えないし、何の問題にもならない。
モノというのは、ヒトの完全な支配の元、存在しそして消えていく。
なるほど、これを自分にやられたらたまらない。何も許されず、葬り去られていくだけ。
ヒトは、道具ではない。ヒトは、支配者であるコトを望む。
これだけモノが溢れる世の中。言い換えれば、人はそのモノを支配する、絶対者。
支配している方は、さほど意識はしないかもしれない。それでもうっすら気づいている。
その証拠に、モノのように支配される側になるのを、拒んでいる。
モノがどのように扱われているか、うっすらとだが、気づいている。
モノが溢れている程、ヒトはその支配者。いつ葬っても許されるなら、そのモノの支配者と言える。
ヒトは支配者の側面を持つ。とても厄介な存在と言うしかない。自分もその一人。
もしも、モノとして扱われるようになれば、いろんな面で楽だと思う。もっとスムーズに、事が運ぶかもしれない。
でも、人はモノにはなれない。
その楽で、スムーズに行くコトも、良しとはしない。なぜなら、それはホンモノではないから。
いろんなぶつかりや、争いの中で、それを上手く調整するのが、ヒトの世の中だから。
とするなら、モノも、モノのように扱うべきではないのかもしれない。
モノも、ヒトのようにとまでは行かないが、それに準ずるくらいの扱いにはしても良いような気がする。
それは楽ではないし、今までスムーズに行っていたコトを、ギクシャクさせるコトにもなる。でも、それで良い。
そのギクシャクが本物。それこそが、ヒトが求める世の中のあり方。そのギクシャクをいかに、ならしていくか。
いつの間にやら、相当な支配者。その支配者を卒業した時、人と物との関係は、本物になれる。