ぼうかんしゃ
実行者が居る。
見ているヒトがいる。
ほとんどは傍観者。でも、それなりに共有する。
その場その場で起こる出来事を、実行者と、傍観者は共有している。
これは何をもたらすのだろう。傍観者は、見ているだけ。参加していない。
参加していなくても、始まりと、途中と、終わりをある程度冷静に見るコトは出来ている。
これは、何をもたらす。
良くも悪くも、実行されてそこで物事が行われる。その時、傍観者は自分がその中で、どの程度コトが出来るかを、確認している。
自分を確認している。自分ならどうするか。今自分は何をすべきか。
傍観者のままか、参加すべきか。その選択は迫られる。
それは擬似的な、経験。傍観者だが、擬似的には経験している。冷静で無責任な経験。
実行者なら、その後は何も考えないかもしれない。そこで終わる。
でも、傍観者は、その出来事を繰り返し思い出す。自分は何をするべきか、それは突きつけられたまま。
どうやら参加していない人間の方が、繰り返し頭の中で、思い出す。
良い出来事でも、悪い出来事でも、傍観者の方が沢山繰り返し思い出している。
実行者は、その物事をやった疲労を感じるだけ。すぐに忘れてしまう。
傍観者。大半の人はそれ。実行しているヒトのまわりで、何倍ものヒトが傍観している。
ただ、その傍観者は出来事を共有して、気にするほど何度も思い出される。無責任ではあるが、冷静に何度も思い出している。
それは、参加者にもなれない自分を見ながら、実行者になるコトのあこがれと恐怖を、そこに持つ。
まずは傍観者から始まる。いや、ずっと傍観者かもしれない。でも、突きつけられている。参加していなくても、実行者じゃなくても、それなりに突きつけられて考えさせられる。そのヒトなりに、そのヒトが出来る範囲で。やるべきコト、その答えをそれぞれに求められている。