さべつ
奥にある。
ずっと奥にある。
差別したくなる心は、ずっと奥にある。
個人差はあるが、誰の中にも差別的な心はある。
差別が、表面化するのは、チカラが関係する。チカラが強い者が、差別として表面化していく。
もしもチカラ的に均衡が保てれば、差別というのは、オモテには出てこない。
オモテに出てこないだけで、残念ながら、無いワケではない。
もう一つ要因として、差別を生むのは、距離がある。肌が触れるほど、近い距離で生活を共有して、差別は生まれる。
これは、差別が表面化すると言うより、生まれるといった方がイイ。
生活の場所を共有していなければ、差別自体は生まれない。まだ、差別のカタチをなさないで、存在するだけ。
あくまでも、生活圏が共有された時、生まれてくるモノ。
生活圏を共有すると、人は好き勝手出来なくなる。他のヒトが居るので、好き勝手出来ない。
基本的に、人は好き勝ってしたいモノ。それをガマンしなければならない。
ガマンしているうちはイイが、それが表面に吹き出すコトもある。それがチカラ関係。
圧倒的に、チカラ関係で有利に立つと、ガマンしなくてもよくなる。それが、差別というカタチで出てくる。
他のモノを排除しようとする。その排除したいという気持ちがカタチになったモノが、差別。
みんな好き勝手にしたいのだから、チカラ関係によっては逆転もあり得る。
更には、差別として出てこなくても、好き勝手したいというのは他にも向けられる。
というコトは、いわゆる仲間に対しても、排除したい気持ちは向けられる。家族に対しても存在する。
存在するが、仲間という意識があるので、カタチには出てこない。同じという意識があるので、表面には出てこない。
出てこないがある。排除したいという根本的な考えは、存在している。
世の中はヒトとぶつかりながら、生活していくモノ。それで、うまくいくように術を身につけないといけない。
生活圏には、自分以外のヒトも入り込んでくる。それは当然のコトなので、その準備はしたい。
でも実は、生活圏に他のヒトを入れないというコトも出来る。それは、ヒトのいない所に行くコト。
本当に独りで生活するコト。
これならば、好き勝手出来る。ヒトがいないので、好き勝手が出来る。
ただ、全てを独りでやらなければいけない。やってくれるヒトは居ないので、全て自分だけでやらなくてはいけない。
それをしてもイイと思う。そういう恐くて、大変な生活をしてもイイと思う。そうでないと分からない。
一人だけで生きてみないと、分からない。ヒトがいるありがたみが、分からない。
差別の解決には、好き勝手出来る環境に、身を置くしかない。自分だけ、一人で生きていく所に身を置く。それはあらゆるヒトが、経験した方がイイ。そこを越えれば、他のヒトに対しての不満もなくなる。排除したい気持ちも消え、差別も消えていくハズ。