むくわれる
ヒトは活動する。
一生懸命活動する。
一生懸命活動しても、報われるとは限らない。
報われるとは何だろう。どうすれば報われるのだろう。
報われる時は、ヒトがそうしてくれる。誰かが気づいて、対応して初めて報われる。
どんなに努力しても、ヒトがそうしてくれなければ、報われるコトはない。
全てはヒト。というコトは、自分もその中に入る。
では、自分はヒトが一生懸命やっているコトを、どうしているだろうか。
たとえヒトが一生懸命やっているコトでも、案外うわべで判断してしまっている。
うわべがキレイかどうか、感じが良いかどうかで、判断してしまう。
自分がそうなので、おそらく他のヒトも同じだと思う。
結局一生懸命やっていても、うわべや、感じを良くしないと報われない。
逆に言えば、一生懸命やらなくても、うわべや感じを良くすれば、それなりに評価されるというコトでもある。
さて、その事実を踏まえてどうするだろうか。
たとえ報われたとして、一生懸命やらなかったというコトに、自分は納得するだろうか。
一生懸命やらないとすれば、自分はとても嫌な思いになる。自分は裏切れない。
とすると、一生懸命やっているというのは、自分の為。自分がそれを望んでいる。
報われたいだけなら、一生懸命などやらなくてイイ。
とても厳しい現実。報われるのと、一生懸命やること自体が、まるで方向性が違っていた。
とすると、報われなくて当然。
ヒトの考えからすると、一生懸命やっていれば、いずれ報われると思っている。
残念ながら、それは間違いなので、修正しなければいけない。
一生懸命やっても構わないが、ともかくうわべや見た目をキレイにする。せめて、好感が持てるようにする。
感じを良くすれば、ヒトはこちらを向いてくれる。逆に感じが悪ければ、避けていく。
もしもうわべを好感が持てるように出来ないというなら、報われるコトも諦めるしかない。
一生懸命というのは、自分を裏切りたくないという考えから。自分の為のモノ。報われるとは、方向性が違う。報われる為には、その方向性に修正する必要がある。残酷だが、一生懸命より、方向性。と言える。