えすかれーしょん

おちゃのま

おちゃのま

そこに帰る。

結局そこに帰る。

結局お茶の間に、帰っていく。団らんというモノを、取り戻していく。

お茶の間はおしゃれではない。便利でもないかもしれない。ただ、何かがある。

なくなって、ただ思うのかもしれない。その可能性はあるが、何かがあるような気がする。

とても不便。それでも、それがいい。とても窮屈。その窮屈さというのも、重要な要素。

窮屈とは何だろう。ヒトとの距離が近い。ヒトの密度が高い。その密度は重要と思う。

密度が近いと、窮屈で厄介。それは間違いはない。

でも密度が高いというコトは、距離がゼロに近いというコト。距離がゼロに近ければ、敵対はしない。

充分な距離を保てば、自分のまわりに空間が出来る。その空間は、自分が守るべき空間。

自分と他人とを、隔てる空間。それは敵対して、いつの間にか自分だけを守る。

自分だけを守って、家族だろうと他人にさせる。いつの間にか、孤独化は促進している。

空間を保つほどに、情報だけでヒトを判断するようになる。家族であっても、そうなる。

おしゃれで快適な空間には、他人と化した家族がいるだけ。いつでも本当の敵になりうる、家族がいるだけ。

距離がゼロならば、小競り合いは多くなる。それは肉弾戦。密度が低く距離がある方が、大人の対応はとれる。

大人の対応はとれるが、違う意味での戦いの中に、入れられる。それは情報戦。

ヒトではなく、モノとして判断されていく。そこでは家族ではなく、ただのモノになる。

お茶の間や、団らんの全てが良いワケではない。ただ、その要素は見直していい。

失いつつある、お茶の間の団らんの要素は、組み込んでいってもイイ。

ほんのわずかでも構わない。距離がゼロの時間を作りたい。モノからヒトに戻れる時間。

敵から家族に戻れる時間。それが、お茶の間。その団らん。

距離と密度によって、ヒトとヒトの関係は、まるで変わってしまう。現在は距離が近いか、離れているか、どちらかしかない。出来れば両方欲しい。なので、失われつつお茶の間は、その要素は取り戻されるべき。少しだけでもそこに帰って行くべき。

-えすかれーしょん