やさしさ
何を求める。
それに何を求めるのだろう。
ヒトはやさしさに、何を求めるのだろう。
やさしさは、受けた側の率直な感想。その時の思いを表す言葉。
それはとても気持ちの良いモノ。さらにみんなが欲しいと思うモノ。ではあるが、疑問も残る。
本当に、やさしさなどと言うモノが、あるのだろうか。それこそ、基準のようなモノをつけられるのだろうか。
大概においてそれは、とても都合の良いモノ。相手が自分にとって都合の良い振る舞いをしてくれた時、やさしいと感じる。
自分の欲望を邪魔することなく、好き勝手な振る舞いを許してくれるのが、やさしさになっている。
これは本当のやさしさだろうか。少しばかり安っぽくないだろうか。やさしさはそんなに安っぽいモノなのだろうか。
ではやさしさの逆は何だろう。やさしくないと感じるのは、自分のやりたいコトとかぶって、譲ってくれない行動。
自分のエゴと、相手のエゴがぶつかって、双方が譲らないという状況。これがやさしさの逆。
どうも、自分のエゴを都合良く聞き入れてくれるのが、やさしさになっている。
もしかすると、そうなのかもしれない。やさしさとは、自分のエゴとぶつからない、都合のいい人なのかもしれない。
ただ、相手がエゴを通すコトを、許してあげるというのは、それなりに深いモノがある。
相手の満足を、自分の満足に変換するコトの喜びを、知っているコトになる。
それは自己犠牲の精神。自分の欲求ばかり通しては、出来ない発想と言える。
受ける側はエゴで、与える側は自己犠牲。やさしさは、与える側の自己犠牲なのかもしれない。
そして自己犠牲は、失うだけではなく、相手の満足を自分の喜びに変えている。
それはどういうモノなのだろう。
大切に思うヒトが、悲しい顔をしている時、とても悲しい想いになる。
どうにか笑顔になって欲しいと思う。そういうコトだろうか。相手が満足で、幸せであるコトは、自分にとっても喜び。
大切なヒトというのは、自分にとっても希望になっている。支えになっている。そのヒトが光ってくれた方が安心できる。
それで、自分は損をしても、相手が満足をする自己犠牲を選んでいるのだと思う。
ただ、気をつけなければならないのは、無理をして自己犠牲をしているケース。このメッキはいずれ剥がれてしまう。
そうなると、お互いのエゴとエゴのぶつかり合いになる。片方は、今までとの違いに腹を立て、片方は今までガマンしてきた分を取り返そうとする。
こうなっては、人間関係が崩壊をするのを待つだけになる。ガマンをする自己犠牲なら、やらない方が良い。
相手にやさしさを求められても、出来ないのならば、しない方が良い。
やさしさを演じてしまえば、いずれ悲劇的な結末が待っているだけになる。
やさしさは、エゴのかたまりと、自己犠牲で成り立つ。それがたとえエゴであっても、喜んでもらえるなら、損をしても構わない。その自己犠牲こそが、やさしさの本当の意味になっている。ただ、無理を演じているやさしさも存在する。それだけは、気をつけなければいけない。