うれしい
どの瞬間だろう。
どの瞬間から、そう思うのだろう。
どの瞬間から、うれしいと思うのだろう。
うれしいというのは、祝福の中に存在する。
ヒトから奪ったモノで、どんなに満足しても、そこにうれしいという感情はない。
厳密に言うと、うれしいは物欲から生まれるコトはない。では、うれしいとは何なのだろう。
そこには必ず、自分以外のニンゲンがいる。自分ひとりでは、うれしいという気持ちには、絶対にならない。
うれしいは、祝福の中にある。周りのヒトが、自分を肯定してくれる。その中から生まれてくる。
自分を、他のヒトが認めて、大切に思ってくれた時、うれしいと感じる。
ダレかの中の自分という関係づけで、うれしいという感情は芽生えてくる。
自分ひとりでも、何かを達成した時、うれしいという気持ちにはなるが、それはほぼ一瞬で消えてしまう。
独りでは、すぐにうれしさは消えてしまって、むなしさが残る。
やはりヒトから、祝福されなければ、本当のうれしさは味わえない。
なぜヒトから認められ、祝福されると、うれしいと思うのだろう。
逆の状態、誰からも認められない、祝福されないとなると、どんな風になるだろう。
何をやっても、まるで手応えがない。自己満足はあっても、幸福感がない。
価値も意味も自分だけが感じ、世間的にはゼロになる。無いモノと、同じになってしまう。存在していないのと、同じになってしまう。
ヒトから認められ、祝福されるというのは、自分の存在の証拠となる。価値も意味も共有され、そこに確かに存在していると、確信が持てる。
うれしいというのは、価値の確定。自分の存在の、確定。
自分が有益であると、ヒトから認められた時に、うれしいと感じる。
ヒトから認められた時点で、未来は拓ける。明るい未来が、なんとなく想像できる。
自分にとってヒトは、ヒトにとって自分は、未来を明るくもしてくれる、存在。
うれしいは、自分が認められた瞬間から、湧いてくる感情。その感情は、ヒトからもらい、そして共有して高まっていく。ヒトと分かち合う感情、それが”うれしい”。自分の未来を明るくしてくれるチカラを、ヒトは持っているし、自分もヒトの未来を明るくするチカラを持っている。