ぎゃぐ
どうして面白いのか。
どうして、面白いと思うのか。
ギャグはどうして、面白いと思うのか。
一つは、滑稽さにあるように思う。
その動き、その言葉、そして言い方。これが滑稽ならば、面白いと感じる。
滑稽というのが、本筋かもしれない。かもしれないが、そればかりでは、わざとらしくなり過ぎる。
滑稽さも、そればかりだと、くどくなる。そこで、キメ的要素に変わっていくのかもしれない。
決めポーズ。決めゼリフ。などのキメ。
意味や滑稽さは要らない。タイミング良く、キメればいい。
単純で、使い勝手が良ければ、マネをしたくなる。マネをしたくなるキメを作れれば、立派にギャグとして成立している。
このマネたくなると言うのも、相当重要な要素。なんで、マネをしてみたくなるのだろう。
ギャグをマネるのは、そのシチュエーションの時。ギャグを出すシチュエーションは、結構限定されている。
そのシチュエーションの時に、ギャグを出すコトで、一体感が生まれる。知っているコトと、みんなでやるコトとで、一体感が生まれている。
その一体感が、和ませ、空気を明るくさせる。その時、ギャグにのらないと、空気が読めないというコトになる。
決めポーズや、決めゼリフなどは、コスプレなどと一緒で、そのヒトになった気にもさせてくれる。
同じコトをするのは、そのヒトの分身として、存在できる。決めポーズやセリフは、とても簡単ななりきる方法と言える。
シチュエーションでのギャグはいいが、のべつ幕無しにやっては、くどくなる。押しつけになってしまう。
出し惜しみしつつ、ここぞという時に出すのが、効果的かもしれない。必殺技でなければ、いけないのかもしれない。
そのギャグも、時代性がある。すぐに廃れる運命にある。ごく一部を除いて、ほとんどが廃れてしまう、使い捨て。
これは、知っているコトでの一体感と、関係するのかもしれない。
知っているが常態化すれば、たちまち陳腐化もする。陳腐なモノは、途端にマネをしたいという気が失せる。
そこで、すぐに廃れてしまうのだと思う。流行ったモノほど、廃れるのも早いのは、致し方のないコトかもしれない。
ギャグはマネをする事で、一体になれるコミュニケーション。一体感を欲する気持ちが、ギャグを求めるのかもしれない。広まったら終わりの使い捨てが、ギャグ。それでも、それだけの務めは果たして消えていくのだから、それはとてもすてきな時間と思う。わかったのは、ギャグは意外に、役に立っているというコト。