ごーる
無い。
そして、有る。
ゴールが有るモノと無いもの。
ゴールがあるモノはわかりやすい。そしてゴールが無いモノは、分かりづらい。
世の中に、ゴールがあるモノと、ゴールが無いモノの、二つが存在する。
ゴールがあるモノは、辿り着けば終わるコトが出来る。次のゴールがあるにしても、そこで一区切りつける。
ゴールが無いモノでも、それなりに結果は出る。でもその結果はすぐに流れの中に、埋没してく。
状況に流され、止まることを知らず、終わりすらどこにあるのか分からぬまま、進んでいく。
いつでも途中の状態という表現が、ふさわしいと思う。
終わりのあるモノと、終わりのないモノ。それが同居して、成り立っている。
終わりがあるモノと思っても、次が出てくる場合も多い。終わりと言うよりも、区切りをつけられると考えた方が良い。
区切りをつけられるモノと、ずっと流れ続け、求めるほどにさらに広がってしまうモノ。
縮めていくモノと、広がってしまうモノ。ここに、究極的な何かを感じる。
知るほどに、可能性は縮まり、分からないコトは少なくなっていく。いずれは全てが分かり、分からないコトはゼロになる。
とは思うが、知るほどに、広がってしまう世界もある。知るというのは、分からないコトをゼロに向かわせるように思うが、逆に広げる場合もある。
数学などはそれに当たり、知るほどに狭くなりそうで、実は逆にどんどん広がっていく。
縮まる世界と、広がる世界。
ヒトの行動も、決して答えが出てくれるモノではない。その都度その都度、主体性はその人に任せられている。
とすると、一時的な結果は出ても、それは流れの中に埋没してしまう。
ヒトの行動も、可能性を広げていく、ゴールの無いモノ。
知るという同じ行為でも、世界を縮め、世界を広げるという、真逆の方向に進んでいる。
もしかすると、それこそが永遠をつくる、究極なのかもしれい。
ヒトは知り尽くしても、この世界は広がり、終わりは訪れない。
縮める動きと、広がる動きの両方があれば、世界は終わるコトがないと、そう思う。
なるほど、上手くできている。それならば、上手くできている。終わりに向かっているハズが、実はまだ広がっている世界。
求めれば答えはある。答えは掘り尽くされて、無くなってしまうのか。いや、そうではない、求めるほどに、答えも増えていく。手に入れるほどに、答えも増えていく。それが究極のカタチ。実際に起こっているだけに、とても上手くできている世界だと、そう思う。