きせい
誰かが。
誰かが土台になっている。
誰かの土台の上に、寄生している。その土台を失うコトは、考えられない。
土台は本当の地面ではなく、ダレかの考えや、社会的な通念。
その上にドッカリと、根を生やしている。それが正しいと、思っている。
でも、本当の物事の地面から、根をはったモノではない。それだけに、とても脆い。
さらにいえば、その土台の範囲を、越えることは出来ない。そのダレかの土台の範囲内で、考えは進められる。
それだけに、余計にその土台にしがみつく。しがみつくコトで、誠意のようなモノを示そうとしてしまう。
としても、その範囲で答えがないのなら、何をやっても無意味に響く。
確かにこれだけ高度な社会になれば、わざわざゼロから確認などしない。
全ては誰かの考えの上であり、その誰かの考えも、その前の誰かの考えを土台にしている。
どんどん高度にはなる。それでも、実は狭まっている。さらには、通念であるはずのモノが、本当に正しいかもあやしい。
たとえ土台が間違っていても、次がその土台にのれば、間違えたまま進んでしまう。
考えの上に考えを寄生させている以上、それはごくごく普通に起こりうる。
さらには、土台の範囲を超えるコトを、想像も出来なくなる。
一度高度になってしまえば、それ以下に落とすコトが出来ない。泥臭く、空振りに終わるかもしれない常識外れの挑戦を、しなくなる。
その範囲で答えがあればいい。ただ、そこに答えがない場合、どんなに高度になっても、答えは出ない。
現在はそういう時代のような気がする。固定観念や常識は、とても狭い金魚鉢。
固定観念や常識の外には、非常識の大きな海が広がっている。
その海を知らぬまま、金魚鉢の中だけで、とても高度になっている。
高度な金魚鉢は、とてもマヌケに映る。もっと広い世界が広がっているだけに、そう映る。
誰かの考えに寄生するのも良いが、誰の考えにも寄生しない部分も、ひとつは持ちたい。
それだけで、土台にしている誰かの考えも、とてもありがたくなる。
現代人は、先人の作り上げた考えに寄生している。高度になるほど、それは仕方ないが、そこから抜け出すコトも、試みた方がいい。世界は恐ろしいほど広がっている。今までの世界と思っていたモノが、何なんだと思うくらいに。それでいい。そこでもがいていくコトが、先人の深い恩恵を知り、そして新たな道を切り開くコトにも通じていく。