ほん
変わっていく。
影響をうけて、自分が変わっていく。
良い本を読むほどに、その影響で自分が変わってしまう。
それは良い本の良いエキスを、吸収しているから。
それはとてもイイ事なのだけれど、あまりイイモノを見てしまうと、、怖くなる。
自分では、とても叶わないとの思いが先だって、進まなくなってしまう。
自分というカタチを構成するに当たって、自信を失ってしまう。
そればかりか、素晴らしいモノの引力に引き寄せられて、しばらくは同じようなモノしか出せなくなってしまう。
抜け出そうとしても、結果同じようなモノばかりが出る。
それでいいなら、構わない。でも、オリジナルに拘るなら、自由すぎる中である程度固まる所まで待ちたい。
子供の頃から、それは言える。テクニックや知識だけを増やすならば、影響はうけても構わない。
同じラインにのって、同じコトをするコトに価値があるなら、それでイイ。
でも、失うモノはある。見えないけれど、確実に失っている。
自分から発するチカラ。自分から発光する色。それを失ってしまう。
そんなモノ、ほとんどのヒトは感じていない。影響をうけすぎて似しまう事実に、落胆するだけ。
逃れられない引力を、実感するだけ。
でもヒトは発光している。自らで輝いている。ヒトの中には自らで、自らの色で輝かないとイケナイ人がいる。
そのヒトは、影響から離れて、自分の発光を確かめた方がイイ。ある程度定着してから、影響を吸収した方がイイ。
とはいえ、それは難しいモノ。やはり受動的で、吸収力が強い子供の内に、吸収させたいというのもある。
それは兼ね合い、と言うコトになると思う。ただ、吸収を嫌っているのに無理矢理身につけさせるのは、モッタイナイ。
もしかすると、オリジナルを出せる人かも知れない。独自のカタチを出していたら、見守って育てたい。
与えるならば、反射して返ってくるような、弱い影響だけに留めたい。
これは、子供だけでなく大人も同じ。年齢は多少は関係あるが、絶対ではない。
自分がどんなタイプか、そのモノにどれだけ執着出来るか。
もしも強い執着が持てるならば、出来るだけ自由な中から、出来るだけゼロに近い状態から洗い直してみる。
用意された道具も使わない。道具も自作するくらいの、気持ちが欲しい。
自らが光るコトは、役割が分担され進んだ、この現代社会ではそれほど必要ないかも知れない。
それでも、誰かしらが光らなければ、新しい素晴らしいモノは、生まれてこない。
良いモノの影響は、うけても良いし、うけなくても良い。ひとつのカタチが全て正しいわけではない。それぞれの役割がある。それを意識下に引き上げたい。
まずは自由すぎる世界。その上でどう進んでいくか。それを意識したい。