せいめい
動く。
動いては、いる。
生命でなくても、動いてはいる。
生命でなくても動いてはいるが、場所が移動しているだけ。
動かされているだけで、自分というモノがあるわけではない。
ただ動いて、ただ変化して、漂うだけの存在。
生命はそれとは、異質な存在。
まるで精密機械のように、反応を組み合わせるコトで、生命は構成される。
モノを取り込み、必要な成分にワケ、複雑に組み合わせ反応する。それを積み重ねて、カタチにする。
そのカタチを何代も、後生に繫いでいく。
そして自らの意志で、動き回れるようになる。漂うだけの存在が、自分で動き回れるようになった。
自分が出来て、意志が出来る。
カタチが無ければ、自分があってもそれを固定出来ない。動けなければ、意志があってもそれを示せない。
カタチや動きを手に入れて、自分や意志が出来たのか、それとも最初から自分や意志はあるモノなのか。
言えるコトは、ほとんどが生命でない存在。そして生命は、とても高度なシステムを作り上げ、伝え続けている。
自由に動けるカラダを手に入れて、生命達は何をしたのだろう。
これから何をしていくのだろう。やっと手に入れた、このとても便利な、カラダ。
生命でないモノは、下手をすると何百年も、何万年も、何億年も変化せずに、留まったまま。
生命なら、一年でも膨大な時間。その中で様々な出来事が、生まれていく。
変化が激しくなり、時間の意味も出てくる。
結局生命が生まれて、自分と、意志と、時間というモノの意味が強くなった気がする。
生命でなくても、自分があるかも知れない。意志があるかも知れない。時間は当然ある。
でも、生命でなければ、それらは非常に不自由で重たい中に封じ込められる。
生命はその呪縛から、脱するコトが出来た。とんでもなく身軽な、存在。
自由に動けるコトを楽しんだあと、生命は何をすればいいのだろう。
何を望むのだろう。
生命でないモノ達は、何を望んでいたんだろう。生命でなかった頃は、何を望んでただろう。
自由に動ける生命の、すべきコト。
膨大な時間と、とんでもない可能性を手に入れた生命。その中で、何をしていくか。
ふさわしく生きる。その可能性に、ふさわしい生き方をする。それが、答えのような気がする。生命。手に入れた分の責任を、果たせるだろうか。