あいさつ
しないのか。
それとも出来ないのか。
あいさつは、迷いの中にある。してもイイものなのか。しなくてもイイものなのか。
簡単そうで、とても難しい。自分でも、出来ないのか、しないのかが分からない。そんな存在の、あいさつという行為。
この厄介な、あいさつという行為は、何なのだろう。
自分でも、あいさつをするのは、とても苦手。
するべきなのか、しなくて良いのか、判断に苦しむ。
少しでも、緊張状態にあると、あいさつは出来なくなる。すべきと思っても、言葉として出てこない。
逆に、自分が優位にいれば、簡単に出来たりもする。自分の立ち位置も、キーになっている気がする。
そもそもあいさつは、人間関係。それが円滑にいっている仕組みの中では、なんてコト無くうまく行く。
緊張感があるのは、円滑に行っているとは言えない。すでにギクシャクしている。
自分がそこに居て、まるで緊張しなければ、人間関係も良好で、あいさつも自然に出来る。
でももし、否定される要素があった段階で、途端に滞る。世の中には、否定が溢れている。その段階でたじろいでしまう。
そういう私も、沢山否定をしてしまう。気づかないが、誰かをたじろがせていると思う。否定が否定を生み、緊張感を加速させる。
肯定に溢れた世の中をつくれば、多分もっとあいさつも増えるだろうと予想する。
より良いモノを望みすぎて、否定ばかりが増える。肯定は、現状で満足させてしまうので、ワキに追いやられる。
それともう一つ、人の手を借りなくても、生きていけるというのもあるかもしれない。
もしも人の手を借りないと、生きていけないとなれば、それだけで人間関係が必要となる。
嫌でも何でも、手を借りないと生きていけない。となれば、生きる為に人の手を借りる。そこであいさつも、必要になる。
それは必然的に行われる。ただ、一人で生きていけるなら、さほど必要とも言えない。
とすると、あいさつはしないモノで、人間関係も拒んでいるとも言える。
拒んでいるのは自分。理由は、必要ないから。おそらくそれも当たっている。
否定ばかりの世の中と、人の手を借りなくても生きていける状況が、あいさつという行為を苦手にしている。
それは同時に、人間関係の否定とも言える。多分ちょっとしたズレがある。
より高みを望んだとしても、もっと肯定があっていいし、まるで人の手を借りないで生きているワケでもない。
ちょっとズラせば、ヒトはもっと人間関係を円滑に持って行ける。それが下手なのかもしれない。ほんの少しズラす。それだけで、ガラリと変わるかもしれない、そう思う。