さかい
面白かったハズ。
面白かったハズのモノが、つまらなくなる。
面白いと思えるモノも、いずれつまらなくなる。その境は、どこに置かれるのだろう。
かえがたいほど大好きで、とても楽しく面白いモノのハズ。それがいつの間にか、つまらないと感じさせる。
まるで義務のように、重く引きずっている自分に気づく。
あれほどの想いは、ウソではない。実際に強い想いで、輝いていた。
それなのに、いつの間にかそこから逃げ出したくなって、それを違う自分が引き留めている。
どこかに、面白いからつまらないに変わる、一点が存在しなければ、説明がつかない。
その一点は、どう考えても自分の中にあるだろう。そう見当をつけて、探してみる。
面白いと感じさせる時は、自分が待ち望んでいる。狂おしいほど、欲しがっている。
欲しがっているモノが、シンと静まりかえる、一点が存在する。あれほどざわめいていた、欲しがりが、シンと静まりかえる。
そこからはつまらないの坂を、重い気持ちのままで、登らされる。
ガリガリの空きっ腹では、あれほど面白かったのに、いつの間にやら満たされて、弾切れの銃を、虚しく撃ち続けるコトになる。
弾切れになっているのに、打ち続けなければならない。その義務感の毒が、つまらなさになり、気持ちを犯していく。
まるで歯が立たない状態でも、嫌になる。持ちあわせている武器では、はじかれて、通用しない。
無邪気に、ひとつひとつを壊しまくっている時は、とんでもなく面白い。
それが、まるで壊せない、乗り越えられずに、ずっと同じ所にいるようになる。停滞は、鎖で繫がれ幽閉されるに等しい。
大きな壁の前で、白骨化するように、欲しがる気持ちも息絶える。
準備不足、チカラ不足での、敗北者。それがつまらなくさせてくれるモノの、正体。
もうひとつ、その逆でも、反転して同じコトが言える。
全てを乗り越えてしまって、対象を見失う喪失感。歯ごたえが無さ過ぎて、チカラがまるで使えない苛立ち。
逆でありながら、それもつまらなさの正体を形作る。
自らの、チカラのデコボコにあう、デコボコの対象。そいつが居続ければ、面白さも永遠に続く。
ただ、悲しいコトに、それは叶わない。チカラのデコボコはスリ減って、みるみる平らになっていく。
もしも湧き続けるなら、でなければ区切って回復を待てば、いつでも面白いは保てる。それならば、叶うかもしれない。
何ともナイーブ、面白くさせるエリアは狭すぎる。狭いエリアに合わせるのは、自分か、対象か。
面白さとつまらなさの境になる一点は、開きすぎる”差”のようだ。
面白さが欲しいのなら、工夫が要る。努力も、かもしれない。
どっちが埋めるのだろう。開きすぎる”差”は、そこで待っている。どっちにしろ、面白いは作られるモノらしい。成功したモノは面白い。残りは全て、つまらない。と、いうコトになるだろう。