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積み上げられる。
知は、積み上げられていく。
文字は、そのヒトの速度で読まれる。それは一本のラインのように、進められる。
ラインが続くほどに、次のページに移り、さらに次に移っていく。長ければ、その分だけ積み上げられていく。
記憶はそれとは違い、積み上げられるコトはない。積み上げられたとしても、ほんの2,3ページほどになる。
重要な部分だけが残され、他の部分は消される。整理整頓され、印象の強い部分だけが残る。
文字は長いラインになり、積み重なっていくが、記憶はコンパクトになり仕舞われる。
では、知もコンパクトにするコトは、出来ないのだろうか。記憶のように、それに近いカタチに出来ないのだろうか。
ある程度は可能と思う。ただ、2.3ページでは、体裁がつかない。本というのは、それなりに体裁がいる。
知を残す文字のライン、それを積み重ねたカタチの本には、どうやらそれらしく見せる必要があるらしい。
となれば、おのずと余計な部分も、載っかってくる。全てとは言わないが、余計なモノが含まれているモノは多い。
知は余計なモノを、はらんでいく。
インターネットの知は、どうだろう。
バラバラに仕舞われたモノを、簡単に呼び出すコトが出来る。積まれてはいない。
本とは違うし、記憶とも違う。まるで別物。
その知は、必要な時、必要なカタチで、取り出すコトが出来る。ネットはとても便利で、知の仕舞い場所としては、完成されている。
ただ、ネットはカタチを持たない為に、お金になりにくい。それだけになかなか良質なモノが、誕生しない。
生まれるコトが無いので、他の知をそのまま持ってきているような、形態になってしまっている。
積み重ねられて、厚みを持つ知。バラバラに置かれ、厚みの無い知。
厚みのある知は、その厚みが壁となり、一生出逢わないコトも多い。ネットはそれが一瞬で出逢える。
一生逢うコトの無い知と、一瞬にして逢える。知は変化している。気づきにくいが、激変している。
ただ、厚みと同時に、深さがないのも確かなコト。ネットの情報は、本と比べると、深さに欠ける。
ネットに持ってくる時に、どうしてもはしょられる。大切なモノまで、バッサリ切られていく。
ネットで出逢って、文字で深める。それぞれの棲み分けるカタチが、理想的のような気がする。
激変する知の環境の中で、どう活用するか、そこにかかってくるのかもしれない。
とはいえ、まだ知のカタチの可能性は、ある気がする。より記憶に近く、深みもあり、厚みの無いカタチ。
たとえば、顕微鏡で物事をどんどん拡大してみていけるように、知もより深くまで拡大出来るような。
今はないかもしれないけれど、将来的は、そういうモノも期待したい。
知の世界は激変している。壁は取り払われた。あとは、どれだけ求めるか、そして記憶として残せるか。知を使う側にかかってきている。言い訳の出来ない、状況になってきたと、言えるのかもしれない。