かんぜんむけつ
欠点を探してしまう。
どうしても、自分の中の欠点ばかり、見つけようとしてしまう。
どうも、完全無欠を求めているように思う。
自分が完全無欠でなければ、イケないように追い詰めているように思う。
どうしてそうなってしまうのだろう。完全無欠でないと、イケないと思うってしまうのだろう。
自分の中に、ダイブしてみる。
本来、欠点があっても良いハズ。それはヒトとしての味にもなり、面白みにもなる。
ただ、確かに欠点は悪いコトと、とらえられる。忌み嫌われる、要素とも云える。
というコトは、まだ社会が欠点を持っているコトを、当然とはしていないというコトだろうか。
確かにみんな、普通を装って生活している。その普通の中には、欠点は含まれない。
欠点を隠しながら生きている。とすれば、やはり社会の中では、ヒトの欠点の居場所が用意されていないと云える。
これでは、とても生きづらい。社会がヒトに、完全無欠を求めてしまっている。
それではヒトは、ウソをついて生きていかなければ、ならない。自分の欠点を、恥じて責め続けなければならない。
欠点の居場所を作ってしまうと、社会は成り立たないのだろうか。
そんなコトはまるでない。逆に生きやすくなる。さらには、欠点から得られるモノも、沢山ある。
隠さずに晒せば、得られるモノを共有出来る。欠点の居場所を作っても、それでヒトが堕落をするコトはない。
みんなが欠点を持っているコトを、知る必要がある。更にそれを恥じて隠している現状も、認識して欲しい。
完全無欠を装わなければイケない。現状、そんな窮屈な社会であるのには、間違いない。
これはなんとしなければ、イケない。とても生きづらい現状を、変えていかないと、どんどん追い詰められるばかり。
完全無欠な人間などいない。とすると、誰かが勇気を持ってそれを主張する必要があるのかもしれない。
裸の王様を指摘した子供のように、みんなが無理してウソをついて生きているコトを、指摘する勇気が要るのかもしれない。
相手は王様ではない。相手は自分の中に。そしてみんなの中に。それが社会を作ってしまっている。
勇気を持って、そんなウソの社会を壊してしまえばいい。欠点の居場所のある社会に、いずれ持って行けたら素晴らしいと思う。