てきたい
正しいに、腰かけてしまう。
どうしても、自分の正しさに、腰かけてしまう。
確かに正しいかもしれない。相手の方が間違っているかもしれない。
としても、間違っている相手に、ナニをしてもイイという訳ではない。
正しいなら、正しいなりの行動をしないとイケない。
それなのに、敵対ばかり。敵対が最終的なカタチになれば、目の前に死体が転がる、もしくは自分が死体になるしかない。
敵対の行き着く所は、お墓を増やすだけのコトになってしまう。
そこまで行かなくても、目先の感情論で行動してしまい、後悔するコトになる。
正しいの使い方が、間違っていたのかもしれない。
相手に対して正面から、正しいをぶつけても、結局争いや、威圧にしかならない気がする。
正しいを通したいなら、相手と同じ方向を向いて、説明した方が効果的と思う。
私刑や懲罰は、自己満足の、いやらしい行為に他ならない。
相手に正しさを理解してもらいたいなら、同じ方向を向き、味方として伝えた方が、効果的に違いない。
結局、相手をやり込めたいという、いやらしさが正しいを振りかざす、正しいに腰かける行為になってしまうのだと思う。
この、誰かをやり込めたいという、いやらしい自分と向き合ってみる。どうして、やり込めたいなどという気持ちになるのか。
おそらくは快楽。やり込めた時の快楽を、求めている。これは相手のコトを考えない、冷たい行為。
自分の中から、やり込めたいという気持ちが完全になくなったら、一体どうなる。
無くなっても死にはしない。無くなっても、どんな能力も失われるコトはない。
やり込めたい気持ちは、自分の殻。やり込めたい気持ちを無くすコトは、自分の殻を打ち砕くコト。
完全に無くすのは、かなり難しい。それでも、その殻を打ち破っていきたい。その先にナニがあるのか、まだ分からない。
おそらく殻が破れるコトで、見えてくるモノも、違ってくる。自分も一回り、大きくなれる。
自分を小さくしている、やり込めたいという相手のコトをまるで考えない、いやらしい殻。
この殻と、自らで決別した時、自分は次の段階に行ける。そんな気がする。