ささえ
それが無くなったら、どうなるだろう。
国で無くなたら、どうなってしまうだろう。
このブログで、国をワクにした方がイイと、提案してきた。
国という名を、枠に変える。日本枠、アメリカ合衆枠、オーストラリア枠・・・・。
枠に変えるコトで、支配的な要素を抜くコトが出来る。
国というのは、宗教だとも、このブログで書いた。大きな存在、絶対的な存在に国を置くコトで、とても安心出来る。
または、すがりつくコトで、おこぼれをもらうという、宗教的な存在。
絶対的でなくてはならず、国のやり方に従うカタチ。とても従属的で、支配を受ける国という宗教。
この従属的や、しはいのだけを取りのぞく為に、枠にする。そう提案してきた。
では、現実的にそうなったとして、国を心の支えにしていたヒトは、どうなってしまうだろう。
まずは、絶対的な存在にまで思っているヒト。その絶対的な存在が、そうではなくなってしまう。
これは、受け入れがたい状況と思う。理解も出来ないかもしれない。
理解出来ないヒトがいるのに、変えるのは乱暴。段階的に、少しずつ変えていくしかない。
ただ、従属的や、支配という要素だけは、否定したい。
絶対的な存在でも構わないが、従属や支配は、放棄すると定めたい。
いや、絶対的というのもマズイ。そこまでの依存は、従属的になってしまう。
大切に思うのはイイが、服従するべきではない。イイなりになっても困る。
枠の世界は、一人ひとりを尊重し、その一人ひとりが担うべきモノを担っていくカタチ。
分担して協力していく。とすると、国を大きい存在、大切なモノと思うのは構わないが、ヒトもそれと同等に、尊重してもらいたい。
一人ひとりを、そして自分も、相手も、尊重されるべきというのは、譲れないトコロ。
国を大きく思うのは構わないが、ヒトをないがしろにされても困る。ここだけは譲れない。
国が枠に変わってしまうと、ついてこれないヒトも出てくる。なので、段階的に少しずつ変えていく。
大きい存在と、思い続けるのは構わない。それでも、ヒトはないがしろにされては困る。従属も否定する。
じょじょにで構わない。国はすがりつく存在ではないと、実感してもらいたい。そして、自分たち一人ひとりが、カタチ作っているコトを、何よりも知って頂きたい。そう思う。