な
名を大切にする。
名など要らぬ、そういうヒトもいる。
名に対してのこの両極の対応、それの意図する所は何だろう。
名とは、モノに付けられる固有の音声と文字を言う。
固有という要素と、モノの表面にぺたりと貼り付けられる要素と、名前にもいくつか要素がある。
固有と言う要素を見ているヒトは、その存在を大切に考える。そしてそれぞれ違っているコトに、豊かさを感じている。
それを象徴しているのが名前なので、とても名前を大切にする。
存在できているコトに感謝し、違うモノ同士が協力して社会を作る。その理想型を、おぼろげながらも軸に置いていると思う。
モノの上辺に張り付いている、名前の要素を見ているヒトは、名ばかりになっている現状を見て、それを否定する。
名前ばかり見て、中身を見なくなる。名前さえあれば、中身など酷くても、もてはやされる。
逆に、どんなに素晴らしいモノでも、名前がなければゴミのように扱われたりする。
その本質を見ない状況を、否定している。
両極ではあるが、真逆ではない。
それぞれが、違う要素に対して、違うとらえ方をしているだけ。
そして双方が、実はそのモノの本質、そしてその存在の尊さを、見ている。
名は上辺で、中身ではない。存在の価値ならばいいが、金銭的価値が名前にこびりついては、本質がおろそかになってしまう。
名は、固有の認識をする為に、貼られていればいい。それ以上のモノは、何も付けない方がイイ。
存在はそれぞれ固有で、とても尊いモノ。その、固有という概念の手助けになるモノが、名前。
名前がなければ、みんなと概念を共有できなくなってしまう。ただ、名前だけになりすぎれば、概念自体がおろそかになる。
名という決まりゴト。それでヒトは、モノを認識する。いや、認識していると思いすぎてしまうのかもしれない。
あくまで、上辺。あくまで、わかりやすく認識する為の道具。やはり重要なのは、本質、そして固有であるという事実。
名を、それほど立派にするモノではない。あくまで、大切なのは中身。名前だけ知っていて、よくよく見れば何も知らない。それはよくある愚行。
名前は、入り口。その奥に広がる、そのモノ自体を、キッチリ見定めたい。そしてそちらを、成長させていきたい。