えいきょう
たくさんの影響を受けて、自分は構成されている。
影響を受けすぎて、地の自分を見失っているかもしれない。
地の自分は、どんなモノだろう。
地の自分から、発せられるものは、何があるだろう。
影響という、たくさんのノイズを取り払っていく。あまりにも影響されているコトに、再認識させられる。
自分がとても好きなモノ。好きだと感じるモノ。この気持ちは、影響を受けてとは考えにくい。
好きだという気持ちは、地のモノ。
ただ、それを自分でカタチにする時、その段階で影響されたモノが出てくる。
その表現は、地で作り上げていない可能性の方が高い。地で発していない、可能性が高い。
地だけでカタチ作るコトは、出来ないのだろうか。全くの自分発のカタチは、どんなモノだろう。
あらゆる影響を取り除き、自分発のモノを探し出す。欠片でも良い、カタチになってなくてもかまわない。
それこそ、自分の地から、出てくるカタチ。地から出てくるモノは、とても強い。
核を持つモノは、チョッとのことではへこたれない、とても強いホンモノ。
素晴らしすぎるモノに、影響されすぎて、自分の地が見えなくなってしまっている。
自分のとても好きなモノ。その好きと感じるモノを研ぎ澄ませて、探り当てていく。
と、探り当てようとしたが、何も見つからなかった。自分発のモノなんて、実は何もないことがわかった。
ただ、ヒトの素晴らしい何かを見て、自分の中で跳ね返るモノ。コレは人それぞれ違う。
この跳ね返りの違いこそ、地だと感じさせる。まるでゼロからではないが、ナニかが入ってきて、それを跳ね返すカタチこそ、自分発のモノと言える。
ただ、せっかく良い跳ね返しが出来ているのに、固定観念にとらわれて、地を殺してしまっているコトも多い。
固定観念を打ち破って、自由すぎる中で、跳ね返すコト。地を解放するコト。
それで、眠っていたチカラが、カタチになるかもしれない。どう跳ね返していくか、それで独自の道を歩き出せると思う。