かちまけ
ダレの視線とわかれば、選挙の勝ち負けはジツに不愉快。
ダレが勝つのだろう、ダレが負けるのだろう。
国民の視線でいえば、選挙は選ぶか選ばないかの二つ。もしくは誰に託すかになる。どちらも、勝ち負けではない。
誰が勝って、誰が負けるんだろう。
勝った者は得て、負けた者は失う。それが議席とすれば、勝ち負けは立候補者となる。
もうこの段階で、国民はないがしろにされていて、気分が悪い。
ただそれだけではない。もう一つ重要な要素に、過半数というモノがある。
コレで与党になるか、野党になるかが決定する。とすると、勝ち負けは、政党の視線となる。
政党はヒトではないので、視線はない。とすると、政党を動かす権限のある、党執行部の視線。
全ては党執行部の目線。それが勝ち負け。主体はもちろん、国民ではなくなっている。
モンダイは、この党執行部やら、立候補者の視線を、マスコミまで使うというコト。
そんなモノに合わせる必要などない。あくまで、国民の視線でいればいいハズ。
国民の視線に立ってと、コメンテーターがよく使う。それなら、マスコミも国民の視線でやればいい。
いつの間にやら慣らされてしまっているモノは、自分本位のヒト達の、あさはか過ぎる見方。
国民はその道具に過ぎない。勝ち負けの道具になってしまっている。
コレでは国民は、ただのサイコロ。どちらが出るかの、サイコロにされてしまっている。確かに、その時は楽しいかも知れない。ただ、そんなものは、一時のお祭り。
選挙を、勝ち負けを決めるサイコロ遊びから、脱却させたい。
国民のサイコロ化を、払拭したい。その為に、もう選挙の勝ち負けという表現は、握りつぶしてしまうべき。
そうしないと、国民は主権とは名ばかりの、ただのサイコロ。